気合でなんとか

@Ningensei848が頑張った記録

宝泉寺禅センターで修行してきた報告 - Klis Advent Calendar 2017

※この記事はKlis Advent Calendar 2017 - 4日目の記事です。Klis Advent Calendar 2017の記事一覧は以下からどうぞ。 adventar.org

 この記事の前日(3日目)の記事は、まきいし(@nowork_noota) さんの「趣味かオタクか何かしらのはなしをします→労働の話になりました」でした。以下からどうぞ~。(ほんとバイトして金を稼ぐってのは難しいよね…よくぞ頑張った、お疲れ様)

nowork-noota.hatenablog.com

 

というわけで本日は不肖わたしの順番です……めっちゃ気合い入れてかいたろ!とかおもってたら一日潰れていました(白目)

※すべての記事合わせたらおそらく1万字近く書いてる…なんでテスト期間も近い時期にこんなことを……

この記事の次の日(5日目)の記事は、chr(@lmn8cs) さんの「梶井基次郎を推す記事」らしいです。以下からどうぞ~。

lmn8cs.hatenablog.com

それでは悩める大学生/大学院生各位よろしくお願いいたします……。

目次

  1. 導入/経緯
  2. 概要
  3. 修行内容の詳細
  4. 各日の日記
  5. 諸注意:修行へ行く前に
  6. まとめ+修行したいと思ったひとへのメッセージ
  7. 参考文献

導入/経緯

 さて、世間ではインターネットの普及とともにSNSが大流行して久しいですね。 そんな現代社会において、何一つとしてSNSのアカウントを持っていないとか、自ら何の発信もしないという人はおそらくごく稀なマイノリティだと思われます。 例えばTwitterFacebook, LINE, instagram, slack, 懐かしいところではmixiや最新のものだとsarahahとか……。 利用目的は人それぞれ千差万別ありますが、“人との交流を求める”という点ではすべてのSNSツールに共通しています。 そりゃあまぁSocialにNetworkするためのServiceなのだから当然ですね。

 しかし、翻ってご自分の現在の利用状況を振り返ってみてください……。 そこにきちんと自分の目標設定、ないしSNSを利用する意義が明文化されていたでしょうか。 言い換えれば、「SNSを使う」のではなくて「SNSに仕える」ような事態になっていないだろうか、ということです。 人と話すのは楽しいです。人が楽しんでいる/哀しんでいる/憤っている/喜んでいる様子を見るのはある種の快楽です。 それらがとめどなくあふれて流れてくるSNSという情報の源泉は、ともすれば麻薬のような効果があるといえるでしょう。 使えば使うほどもっと使いたくなる…それを使うことでなんらかの不利益が自分の身に生じたとしても、 きっとそれ以上のリターンがあるはずだから、と思い込みさらにのめり込み、さらなる不利益が生じる……。 程度の差はあれど、上記の事柄に関しては誰しもが経験しうるSNSの落とし穴といえるでしょう。

 私はその罠に嵌りました。複数のSNSを活用し、自分の興味を広げ探索しているつもりになっていたのが、 実はただ時間だけを消費し結果として何も得られない虚無に陥っていたのです。 こうなると自分ではどうしようもない状態だと、当時の私は思いました。 どうにかして外部から何らかの圧力をかけて矯正しないといけない、と……。

 その外部圧力として私が選んだのが「寺に籠って禅道修行する」ということでした。
すべての電子機器その他インターネット上での自分という存在を縛りうるものをすべて捨て去って山に籠るのです。 現世での自分は既に死んだものと思って、京都府亀岡市にある宝泉寺禅センターの門を私は叩きました。

 次章からは、まず三泊四日で行われた修行全体の概要を述べ、そこから一日ごとの振り返りを述べていきます。 最後にまとめとして、この記事を読んだ方々へのメッセージと参考資料を載せてあります。

※あとから振り返ることができるようにしよう思い、修行中は毎日筆を執り自らの想いをつづっていました。 あまりにも長いので別の記事に書き、各章からリンクされるようにしてあります。 お時間に余裕のある方は読んでみてもいいかもしれません。

概要:禅道修行とは何をするのか

宝泉寺禅センターでは、主に以下のような修行を行いました。

  • 修行者たちを禅堂に集めて坐禅
  • 敷地内の掃除や作務(さむ)といった「動く禅」
  • 修行者たちが食堂に集まって懐石(薬石)をいただく
  • 御本尊のある本堂にて読経(朝のお勤め)
  • 和尚の法話をきく
  • 仏教聖典を修行者全員で順番に拝読する…… など

一日の時系列

05:20 起床。15分でトイレや身支度を済ませる。
05:35 朝の「歩く禅」即ち境内をぐるぐると回ったのち、そのまま境内で体操。
十分に体が温まったら禅堂で小坐禅
本堂に移動し、朝のお勤めとして読経。
終わり次第その場で担当場所が伝えられ、敷地内の掃除を行う。
15分ほど経って掃除を終えたら次は懐石。
30分ほどの休憩をはさんですぐ「動く禅」である作務(さむ)を行う。
(昼食までの3時間半は寺の敷地の内外のあらゆる雑事を作務として行うことになる)
12:00~ 昼食。後述するが、この時間が唯一至福の時とも言える。
修行者全員で食卓まわりを片づけ終えると、だいたい12:45くらいになっている。
(4hほど自由時間)
16:45~ 夕方の小坐禅を行なったあと、食堂に集まって薬石。
(小休止)
18:45~ 禅堂にて仏教聖典の拝読。
19:15~ 25分×3本(インターバル5分)で坐禅
22:00 完全消灯。

修行内容の詳細

 一言に修行といっても、イメージが湧かないと思いますが、禅の基本思想は「無」であること。 そしてそのために必要なのは「姿勢」と「呼吸」です。

坐禅の作法:姿勢

 坐禅、とは即ち「坐して立つ」ことにほかなりません。ただ足を組んで座るのとはわけが違います。 曹洞宗のこのページが参考になると思います。(以下、そこからの引用です)

まず、坐蒲(ざふ)がおしりの中心に位置するようにして、深すぎず浅すぎず坐り、足を組みます。結跏趺坐(けっかふざ)でも半跏趺坐(はんかふざ)でも、大切なことは、両膝とおしりの三点で上体を支えるということです。ただし、体調・体質には個人差がありますから、無理をせず坐り方を工夫すると良いでしょう。
背筋をまっすぐにのばし、頭のてっぺんで天井を突き上げるようにしてあごをひき、両肩の力をぬいて、腰にきまりをつけます。この時、耳と肩、鼻とおへそとが垂直になるようにして、前後左右に傾かないようにします。

と、ある通り、足を組んでその結果両膝と臀部の3点でtriangleが作られ、その重心に上体の重心を重ねられるように坐ればいいわけです。 さらに上体姿勢を整えるとなぜか不思議と身が引き締まる思いがします。 宝泉寺の和尚曰はく、坐禅におけるこの姿勢こそが「坐して立つ」であるといいます。 ※とはいうものの、膝が悪かったり骨格の関係でうまく足が組めない・正座するのが苦痛すぎて厳しいという人のためのサポートも充実しています。ご自分で調べてみてください。

坐禅の作法:呼吸

 禅の基本思想である「無」へと到達するためには、「呼吸を消すこと」が必要とされます。 息を止める、ということではなく、呼吸の際に漏れる摩擦音でさえも出さないように深くゆっくりと力強く呼吸せよ、ということです。 基本的には鼻からの呼吸が推奨されますが、それだけだとどうしても摩擦音が消せない場合に口呼吸と併用することも勧められています。 坐禅を行い深く瞑想し「無」になるためには雑音が非常に邪魔となる、というのは想像に難くないでしょう。 Adenoids気味な人にはつらい環境かもしれません。

朝のお勤め:経文読経

 本堂に集まり、正座の状態で約16頁に渡る経文を木魚や鐘の音に合わせて唱謡します。 肚から声を出す、という表現がありますが、熟練修行者たちの声量は全くどこから出しているのかと思うほどに大きく響く声であり、それに負けじと大きな声で音読することになります。 注意しなければならないのは、25分近い時間それを続けるということと、その間ずっと正座していなければならないということです。 私が初めて挑んだ時、読経が終わった後には足の血流が滞り、動かすことも立ち上がることもままならない状態になりました…。 幸いなことに、痛みや痺れ以外の部分、つまり読経そのものに集中できる(辛いという感情から目を逸らせる)ので、そういう点では すべての修行のうちで二番目に苦しい時間だったといえなくもないです。

動く禅 其の一:施設の環境美化

 なんとこの宝泉寺禅センターでは、シャワールームが4つ、男女兼用トイレが6つあり、それらを毎朝ピカピカに掃除する必要があります。 他にも、各部屋の掃除、外階段の掃除、シンク周りの掃除などきれいにすべき場所は種々様々であります。 これらを修行者全員が各場所に割り振られ、15分程度で掃除をすることになります。 ローテーションなのか固定なのか3泊程度ではわかりませんが、私の場合は、最も面倒といわれるシャワールームを3日連続で担当しました。 何か月かに一度掃除する、というレベルではなく清潔に保たれているため、やるべきことはネットにかかった毛髪やごみを取り除いたり、付近で拭いて水気をきることぐらいでした。

動く禅 其の二:作務

 懐石;朝の食事を終え、小休止を挟んだのち、午前中いっぱいは作務(さむ)と呼ばれる雑用に精を出します。 これもまたちょうど時期が悪く、私の場合は作務の中でも最も重労働な部類にあたる「畑の堆肥移動」をすることになりました。 (もちろんこれは主に年齢の若い男性で行われ、女性やご老体は敷地周りの掃除やゴミ捨て、買い出しなどに割り当てられていました) 私語を慎み、呼吸を整えたうえで、適度に同じ修行者たちとコミュニケーションを取りながら、 バケツリレーで堆肥を運んでいく様子はなかなか簡単そうで、しかし意外に腰に来るものでした(笑) 時間こそ長いものの、作業自体は簡単で集中しやすいものなので、禅の呼吸がうまくハマるとあっという間に時間が過ぎていきます(これはマジ)

動く禅 其の三:日常生活

 何で寺での修行生活(日常生活)が動く禅なの?という話ですが、いくつ理由があります。 まず一つ目に、すべて生活に必要なものは修行者全員の“共用”です。 例えば、休憩時間中にお茶を飲みたいと思ったときに、入れるために必要なコップは、使ったら水洗いして元の場所に戻す必要があります。 洗剤などは使わず、素手で水洗いし、布巾で水気を拭き取るだけです。 万が一、水筒やペットボトル等の持ち込みがあった場合は下山するまで預けなければなりません。 また、食事の際に使う持鉢(箸を含めた食器類)にしても、これまで修行してきた誰かが使ったものを渡されるわけです。 「汚れ」ではなく「穢れ」をどうしても強く意識してしまい、使うのに抵抗があったり苦痛に感じる人もいるかもしれません。

懐石と薬石:食事もまた修行である

 私にとって最も苦痛だったのは、この食事の時間です。 なぜそんなにも辛いのかというと、それは食事が始まってから終わるまでの約30分間ずっと正座を続けなければならないことと、その苦痛を紛らわせるような何かが一切存在しないからです。 目の前の食事はきっとおいしい…しかしそれを味わう以前に全神経が足に持っていかれてしまっているッッ……‼ 三泊四日の修行だと、朝3回・夕3回の計6回はこの苦しみを味わうことになります。

※実際には、正座ができない人は申告すればテーブルとイスで食事がとれます。膝を悪くしてしまったら元も子もありませんので。

 位置につき持鉢を開いて少し経ち、びりびりと足が痺れ始めたと思ったら、食事前の経文読経をせねばならなかったり、食事作法がままならず何度も注意されストレスになったり……。 食事中ももちろん私語は禁止ですし、器から口へ食べ物を運ぶ際も極力音をたてないようにしなければなりません。 食べ終えた後には、これがカルチャーショックにもなりうるのですが、まず一つの器にお湯を注ぎ、 そのヨゴレを、残しておいたたくあんで絡めとってきれいにするという行為があります。 そして最後にヨゴレが落ちて半ばスープとなった汁を一息に飲み干す……。 こうしてきれいになった器はすべて布巾で水気を拭き取り、乾燥させるでもなくそのまま持鉢を包んでいた布と一緒にくるんでしまいます。 そしてそれをまた次の懐石(薬石)でも同様にして使う……。この持鉢は下山するときに返却するまで一度も洗いません。 衛生面がどうしても気になってしまう方にはかなり厳しい修行となりうるでしょう。

各日の日記

 この章では、私が入山してから下山するまでの休憩時間に書いた日記(memo)をなるべくそのまま書き下したものです。 プレーンテキストそのまま張り付けてしまうとこの記事全体があまりにも長くなりすぎるので、別枠の記事として書きました。 以下のリンクからどうぞ

(※と思ってたけど思いのほか分量があってヤバい…長すぎるものは一部抜粋とか要約とかになってます)

諸注意:修行へ行く前に

しくじり先生じゃあないけれど、いざ修行へ行く前に留意すべきことを列記します。

  • 初めてなら三泊四日で挑もう、それ以下の長さだとあまり意味がないかも
    ※というのも、「まる一日通して修行しました」が一日だけなのか二日あったのかでだいぶ実感が違うと思う。 私の場合、三日目の夜の坐禅でやっと息の消し方に慣れてきて、少しだけ深いところまで瞑想ができた。 きっと二泊三日だけでは、正座が苦痛で苦痛で仕方がないという負の印象だけが残っていただろう。
  • 1人で孤独に修行したいのならここではないところで
    ※和気藹々、とは違うけれど、宝泉寺禅センターでの修行は時間によってメリハリがきちんとあった。 そして、修行者みんなで協調し、交流し坐禅にいそしんでいた。 一人で黙々と厳しくやりたい場合は違う場所を探さないといけないと思う。
  • 化粧はできないし、手先足先の保温もできない
    ※若い女性には厳しいなと思ったのは、化粧が禁止であること。歴史的経緯もあり、どうしても男性主義的な部分があるが、 それは修行だからであり、性別は超克したものだと思ってあきらめるほかない。男性ももちろんワックスなど禁止だしカツラもだめだ。 加えて、敷地内では素足が基本である。ポケットに手を突っ込むのもだめだし、手袋も使用できない。 こういった理由から、(特に若い女性には)寒い季節に修行に行くのはお勧めできない。
  • 耳鼻咽喉系/呼吸器系に不安のある人は再考を
    ※冒頭にも述べた通り、禅は「姿勢」と「呼吸」である。例えば、鼻が詰まりやすいとか鼻水が止まらないかもしれない人が 禅堂でほかの修行者と一緒に坐禅を行うとなると、他の迷惑にもなるかもしれないし、なにより自分自身が瞑想にも入れず苦しむだけである。 腹式呼吸で臍下丹田を鍛えれば大丈夫!ともいわれるが、苦しむために修行しているわけではない。
  • みんな悩んでいる/あなたはあくまでも他人
    ※わざわざ京都のはずれの寺まで来て修行をする覚悟のある人たちなのだから、みな真剣な思いで集まっている。 度合いは人によるが、いずれも悩み苦しんでいるかもしれない。 しかし、互いに理解者になろうとしてはいけない。ここに来たのはあくまで自分自身のため。修行のため。 曝け出すことも大切だが、一方で踏み込まれたくないこともあることに留意したい。

まとめ:自分のこれから&修行してみたいと思った人たちへ

 今回の修行で得たことの一つに「幸せへの階段は常に2ステップ」というものがあります。 すなわち、ワンステップ目に苦/楽があって、その次の段に幸せがある、という考え方です。 言い換えると、「楽しい、だから幸せ」というパターンと「苦しい、だけどそれこそが幸せ」というパターンがあるということです。 前者は皆さんが想像する通りですが、後者はいったいどういうことなのか。 それは、苦しんでいる時こそ何か成そうとしている状態であり、もっと言えばその中にこそ「無」の境地があるということです。 ここでは単純に「不楽=苦」ではないこと、自分が苦しむのと苦しめられてしまうのとは違うということに気を付けねばなりません。 (楽しくないイコール苦しんでいる、と考えるのは早計です)それは、「苦しい」のではなく「楽しくない何かがそこにある」というだけにすぎません。放っておきましょう。 自分で望んだ苦しみの中には、きっと幸せがあることでしょう。 しかし、そこに自分の意思が介在せず、「誰かの手によって苦しめられているだけ」である状態を苦しんでいるとは言いません。単に誰かから痛めつけられてるだけです。 また、「苦しみがいつか楽しさに替わり、やがて幸せが訪れる」とも考えてはいけません。3ステップで幸せが来ることはないのです。 結局その考え方は、苦しんでいる過去の自分に対して対価を求めているに過ぎないと思います。

 最後に、ここまで読んでくれたかどうかは置いておいて、自分も修行してみたいと思った人へ。
あなたは、ポジティブな理由で、禅へのほんの興味から修行してみようと思った人だと思います。勿論、そういう人もいましたが、 集まってくる修行者のほとんどは、ネガティブな理由で、そしてそれなりに覚悟をもってやってきます。 私があなたに対して、ここに来るな!などとは到底言えませんが、真剣に悩むほかの方々の邪魔をしてはなりません。 修行に挑むのであれば、それ相応の“覚悟”が必要だと私は思います。それがあって初めて修行に集中し、坐禅を組み瞑想し、 深いところで自己と向き合うことができるのです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
 私にとってこの四日間ほどの修行期間は人生の大きなターニングポイントとなりました。 共に修行した皆様、指導してくださった常住の方々、そして克厳和尚さま、本当にありがとうございました。

参考文献

  1. 禅修行の旅|渡辺美沙のゼロからどこまで出来るかな
    ※この記事を書くにあたって再度調べてたら読みやすく詳細な体験記が出て来ました。正座や読経、衛生面にあまり抵抗がない人ならば、こんな感じに満喫できると思います。
  2. 宝泉寺禅センター - 修行体験ができる禅寺 座禅、生活改善、人生相談
    ※公式ホームページ。日程の予約等の確認・申請もここから
  3. ブッダ(手塚治虫の漫画) - wikipedia
    ※寺の敷地内にある本棚に収蔵。漫画なので視覚的にわかりやすい名作
  4. 坐禅の作法 | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ
    坐禅の作法から足の組み方や姿勢・呼吸など網羅しているページ。イラスト付きでわかりやすい。
  5. ブッダの休日(Kira・pata・shining Mix) by nanasi765 | Free Listening on SoundCloud
    今回の記事を書くにあたっての作業BGMとして流してました。

日記 - 宝泉寺禅センターでの修行 参考資料

※この記事は、2017/11/03-2017/11/06までの修行期間、その間に撮影した写真をまとめて置いておくところです。何となく雰囲気がわかると思います。内装は残念ながらほとんど写真が撮れませんでした(人が多く常にだれかいたため)

修行全体をまとめた記事はこちらです。 

 

ningensei848.hatenablog.com

 

 京都駅から馬掘駅に向かう嵯峨野線

臨済宗宝泉寺 正面入り口

※写真では写っていないが、秋の台風のせいで門が吹き飛んでいた。改修工事中でした。

正面石階段の両側には柿の木があり、枝の先に二つ三つ実が取り残されていた。

このように、実がなる種類の木からその実を二、三粒残して収穫するしきたりを「木名乗り」「木名残り」「木守り」と呼ぶ。(地域差がある)

その意味はぜひ自分で調べてみてほしい。

 

宝泉寺から見た亀岡市馬掘の風景。寺は少し高いところにあるので、こうして一望することができる。

 

 

 洗濯機と乾燥機付き。タオル以外の洗濯物は基本的に洗濯即乾燥機に突っ込む形。一回200円。これを下山時におさめる。

 当然のようにねこが配備されている。 

 

 流石京都といった感じの雰囲気をもつ庭がある。しかしこれも台風で一部崩れてしまったらしい。その上の方にはログハウス(女性用の寝室)がある

 畑

 

上から庭をみた図

寺なので当然檀家の墓もある。ログハウスへは、その墓の隙間を通っていく必要がある。

ラフな格好の住職さんだな~~~と思ってたら一般の修行者でした……(といっても禅修行20年のベテランだけども)

もふろうと思えば意外に簡単にももふれる

奥が食堂と談話室と禅堂があるハナレ、手前が本堂。

 

 

少し離れたところにもいくつかログハウス。ここは常住さんたちの寝室。

 お経の練習をする住職見習いの方(なんと尼さんでした) 

驚くべきことに、図書室まで備えていた。仏教系のほか、和尚が専攻していた臨床心理学系の本もあり、私はいつも午後の休憩時間はここにきて読書していた。空調設備もついていて暖かい快適な環境だった。

禅堂に置かれた木造の仏さま

 禅堂で寝泊まりする男性には一畳分だけスペースが与えられる。寝る時以外の各寝具の置き方は上の写真のように定められていて、起きたらすぐにこの状態に整える必要がある。

本来の坐禅は地べたにペタっと座るだけなのだが、日本人はその体型的な問題から(仏教伝来のインド人よりも足が短い)座布団を使って座るときの姿勢をサポートする慣習が根付いたらしい。

各自の荷物は、畳の下にあるスペースを活用する。慣れないうちは使い方がわからずとまどった……

坐禅時、足が組めない人への救済策その一

クッションに膝立ちになり、そのまま腰を下ろしてくるところに木の椅子を挟む(正座のような姿勢で木の椅子に腰かける)これだけでだいぶ膝や足首への負担が減るらしい。

坐禅時、足が組めない人への救済策その二

足を組むでも正座するでもなく、ただ禅堂という空間に座って瞑想する。この方法があるおかげで、そもそも座ることができない人以外はすべて坐禅を体験することができるようになっている。

 

貴重品ロッカーまである。すごい。

禅堂全体はこんな感じ。手前の島は、ログハウスで寝泊まりしている女性たちが座る(寝る場所としては使わない)

ここに座る人が、禅堂で修行する人たちの音頭を取る。いうなれば一番偉い人が座る。たまたまわたしはこの隣の席だったので、毎回かなり緊張して坐禅に挑んでいた。

 持鉢と食事の際によむ経文。トラウマがよみがえる。

 寝具は頭上にあるスペースに丸めて仕舞う。これにもまた決まりがあるので従うこと。 

 午後の自由時間は昼寝している人も多い。この時間以外は基本的に精神を張り詰めてばかりなので致し方ないと思う。

 

言い忘れていたが、禅堂はハナレの二階にある。(どこでもそうというわけではない)

最終日のあと、帰路に就く際の一枚。嵯峨野線沿線はちょうど季節ということもあり紅葉がとてもきれいで、かつトロッコ列車目当ての客がたくさんいてとてもにぎわっていた。

日記 - 宝泉寺禅センターでの修行 最終日

※この記事では、2017/11/03-2017/11/06までの修行期間、その一日目に書かれた日記を、誤字脱字を校正し書き直したものです。(殆ど原文そのまま)

修行全体をまとめた記事はこちらです。 

 

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5:15に目が覚める。やっとリズムが染みてきたところだが、今日が下山日。起こされるがまま寝具を片づけ、談話室へ。コーヒーで目を覚ます…のも良いのだが、尿意のことも考えていっぱいのお茶だけ飲み歩く禅へ。ハチナンキンという太極拳、いまだにどういう字を書くのかわからない。呼吸も板についてきた…のかな?思うに、かなり脈拍に関係している。ドキドキとは言わないまでも、脈を意識できるときは呼吸が乱れやすい。心ノ臓だけでなく、全身の巡りを考えるのだろうか。

 

あっというまに時が過ぎる。

 

朝のカボチャの煮つけがとてもおいしかった。気づけば懐石を楽しむ余裕が現れてきた。ついでに粥のおかわりまでした。結局最後まで細かいところを注意され続けた食事作法であるが、とてもいい経験になったと思う。持鉢の管理なども含めて、あれができるのは肉や魚をつかわない精進料理の特性あってこそのものだろう。脂もなければ香辛料や発酵物もない。ぜひとも日常生活に戻ったらきちんと食器の管理ができるよう心掛けたい。

 

下山当日であるため、このタイミングで一旦滝ノ間(応接室)へ。最後にお布施と修行に関するアンケートを提出した。良い日々だった。いい修行になった。人生がどうしようもなくなった時のセーフティネットとしてまた来る日があるかもしれない。

 

と、本来はここで下山であるが、昼食を頂くため居残って作務をやることに。またもや堆肥移動であるが、重労働である分だけ昼飯もさぞうまいことだろう、とノリノリであった。昼は、わさび醤油を少し垂らしたちらし寿司を頂いた。酢飯の甘さとわさび醤油の辛さが相まって初めて食べたおいしさだった。典座寮で昼と夜の食事を作ってくださる岩崎さんに深く感謝申し上げたい……。

 

もう帰れという視線もそこそこに、最後にシャワーを借りた。シャワー室にはドライヤーもあればシャンプーもボディソープもあり、まさに至れり尽くせりであった。最高。

 

下山者は朝食のあとでほかの修行者たちに対面して別れの言葉を伝えるタイミングがある。その時に自然と口に出たのは、禅修行そのもの以外に談話室で人のやさしさ/弱さ/強さ/すばらしさに触れることができるという経験が非常にありがたかったということだ。例えば、自分と同じように悩む境遇にあっても、わざわざ寺まで来れない人もいる。実際に彼らの助けになることはできないかもしれないが、これを読んでいる誰かに向けていえば、道に迷うことがあればぜひ来てみてほしいと願う。

 

参考文献

  1. 修行案内 - 宝泉寺禅センター
    ここから問い合わせてみてほしい

日記 - 宝泉寺禅センターでの修行 3日目

※この記事では、2017/11/03-2017/11/06までの修行期間、その一日目に書かれた日記を、誤字脱字を校正し書き直したものです。(殆ど原文そのまま)

修行全体をまとめた記事はこちらです。 

 

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05:20起床。今日もまた二度寝三度寝した後に起きる。昨日は寝る直前にカフェオレを飲んでしまったのがいけない。一方で体は休められたらしい(謎)さて、まずは談話室で温かなお茶を飲む。5:40からの歩く禅と太極拳までは少し時間がある。境内を歩き回る。丹田呼吸とともに体を温める。すべて終え、最後に後ろを向いて初めて、満月が出ていることを知る。

 

朝の坐禅を二セット挟み、朝課。のち、そうじ。二回目の掃除場所もまた昨日と同じくシャワー室。終わって小休憩をはさみ、懐石。またも正座に苦しめられる時間。胡麻和えの野菜がおいしかった。相変わらず足は痺れるが、今回もまた両手でのサポートなしに食事を終えることができた。自分の本質そのものは変わっていなくとも、体質は少し改善されたように思う。食事を終え30分ほどのフリータイム。ここまでで現在8時40分、体感だと終わりの見えないとてつもなく長い時間であるが、振り返ると一瞬刹那の出来事である。そしてそれはまた美化されたものに感じる。苦が幸せ、とは苦しんでいる最中には考えられないことではあるが、……どうなのだろうか?

 

 

(※夜の坐禅を終えて就寝前最後の自由時間でのメモ)

端的に言うと、一瞬で時間が跳んだ間隔。確かに経験したはずの時が凝縮されているというか、ありありと思いだせるのだが、それは一瞬で過ぎ去ってしまう。夕の薬石も正座のままやり遂げた。あと一回(朝の懐石)だけで(修行が)終わるのか…?

 

今というときは限りなく長く感じるのに、過去があまりにも短すぎる……

おやすみなさい。

日記 - 宝泉寺禅センターでの修行 2日目

※この記事では、2017/11/03-2017/11/06までの修行期間、その一日目に書かれた日記を、誤字脱字を校正し書き直したものです。(殆ど原文そのまま)

修行全体をまとめた記事はこちらです。

 

ningensei848.hatenablog.com

寝足りない……もう少し寝るべきか……?と思案していたころ、起床の合図が鳴る。この後何をするのかわからないまま布団周りを片づける。着替えるか悩むうちに禅堂(ここで寝泊まりするのは修行者のうち半数ほど)から人が消え、一人取り残される。焦る中、そういえば朝は外で太極拳?であったことを思い出す。11月上旬、つくばならとてもではないが、京都の朝霧は長袖一枚でも存外暖かかった。少しの寒さが肌に刺さるも、丹田呼吸とともに歩く禅(境内を円く周る)と太極拳を行うことで内側から温められた。

禅堂に移動し、小坐禅→本堂に移り朝課。本堂に入る前に経文が手渡され、本堂の奥から順に座り、全員揃ったところで読経開始。木魚と鐘が鳴り響く中、全員で経文をはじめから読み上げていく。この時点で足がつらい…死ぬ…血栓ができて死んでしまう…。読み終えて、心こそ清々しいが立てない。皆に遅れてやっと立つ。痺れる。

持鉢をもち、食堂へ。また正座…今度こそ死にかねない…。朝は粥とおかずのみ。ゆかりのふりかけがおいしく体に染み渡るも、心から味わうことができない。食べ物に関しては、感謝する以前の問題がまだ残ったままだ。足が痛すぎて意識の平常を保てない。たまらず両手で体重を支える。見苦しい。一連の作法もまだ覚えられない。今回は箸を持つお椀を持つ順番を指摘された。もってから、箸。気を付ける。感謝の意思。毎度ながら食事経文を読み上げる。朝は①十仏名②施食之偈③折水之偈である。夕食とは何が違うのか……

 

食事を終えてまた禅堂へ。小坐禅ののち少しの自由時間。ここで寝間着から着替えた。ヒートテックも着たし、対策は万全。午前は作務を行う。外と内、加えて食事を作る典座寮(てんぞりょう、とよむ)を補佐するという大きく分けて三種類の作務があるらしい。男性は主に力仕事の外作務に就く。今回は月に一度あるかないかの「堆肥移動」をおこなった。畑の堆肥を補充する作業である。畑から少し離れたところに落ち葉や残り物?を用いて自家製堆肥を作っているようで、そこから土を選り分けて運んだ。「手箕(てみ)」と呼ばれる道具をバケツのように使いリレー方式。中々に重労働だった。一時間しない程度の作業、五分休憩、前半作務終了。後半は残りの堆肥を運び、余った時間で畑の草抜きをして終わり。全員揃って挨拶をして解散。

 

なんと昼は正座を崩したうえで談笑しながら食べることが許されていた!ベテラン修行者曰く、この時だけが楽しみで毎日修行しているらしい。談話室にいても話題はみんなめしの話ばかりになるとか…平和だ……。今回はそばと里芋団子であった。これがまたうまくてうまくてほんとうに肉を使っていないのが不思議なほどである。

 

 

自由時間を終えて、夕食(薬石)唯一味噌汁が出される場なので、ここできちんと塩分補給しておかないとあとあとつらいことになる。なお、他の施設では暖かいだけで味はかなり質素、というところもあるようだが、この宝泉寺禅センターの典座寮では工夫が凝らされているらしく、とてもおいしく頂ける。ありがたい限りである。そしてこの二日目の夕食、つまり累計三度目の食事でやっと全工程をきちんとした正座の姿勢で終えることができた。見苦しく両手をつき体を支えることもない。なぜこうなったかというと、それは一種あきらめのようなもの、というか、自らが今感じているこの痛みが、この薬石の場では自分に由来する痛みではないのではないか?と思えたからだ。常識的に考えて、他人の痛みを自分のものとして感じることはできない。しかし、食事の場に立つと、料理を用意してくれた常住さんたちの苦労、食材をここまで運んできてくれた人たちの苦労、…と考えをめぐらすうち、食材そのもののありがたみ(いたみ)、そして果てはその土地そのもの、水そのものにいたるまでの『縁起』を感ずることができたからだと思う。こういった考え方に触れて、一つ壁を越えたという実感が湧いた。「これも修行」「これも縁起」の考え方はかなり大きな人生のターニングポイントだと思う。人生そのものが修行?ラクになりたいという気持ちはあれど、そのラクとは?実際にはそれらは錯覚なのではないか?苦も無く楽も無く、ただ“在る”されど“ない”。つまりそこには「無」があるだけなのでは?

 

参考文献

  1. 縁起 - 仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界
  2.  無常・苦・無我とは - 仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界

日記 - 宝泉寺禅センターでの修行 1日目

※この記事では、2017/11/03-2017/11/06までの修行期間、その一日目に書かれた日記を、誤字脱字を校正し書き直したものです。(殆ど原文そのまま)

修行全体をまとめた記事はこちらです。

 

ningensei848.hatenablog.com

きてから,

  • 柿の実を一つ二つ残してあるのが印象的だった
  • 意外に人が多い(女性の方が多いのも驚いた)
  • 正座がきつすぎる
  • 庭が趣あるつくり
  • 敷地の見回り:宿坊として最高.図書室もあった
  • 食事作法が覚えられない…みようみまね
  • →正座ができず,食事=修行になってしまいそうだ
  • 合掌,合掌低頭,しゃうさく?←字がわからない
  • いざ坐禅→圧倒されるがまま経文を大声で唱える
  • それに至るまでの静寂で耳が壊れそうである
  • 食事…先輩方のパントマイム?足が痛すぎて思考停止
  • →食前も経文を読む。キツイ……
  • 「サバ」?「アジ」?→なんだか餓鬼を払う呪いとして米粒を三つほど捧げる
  • 自由時間.中央法のすごいやつ他、様々なところからいろいろな背景の人々
  • 禅の心構えの説法
  • 電子機器をOFFにせよ!
    しかし、説法している和尚のアップルウォッチが起動しsiriが検索し始める
  • 再度坐禅.呼吸を乱さない一方、音を出すのもだめ……ムリ……

坐禅のち…

シャワーを浴びられた。タオルと着替えさえあればよいようだ。快適。

布団周りもなかなか快適。22時消灯。5時20分起床。健康的すぎる。

 

説法の内容

心身一如→調身,調息,調心 (注;この記事を参考)

縁起 → 条件のようなもの おごりがなくなり諦めがしやすく。

尊いものは下にゆく 水然り。目には見えない力に逆らわない。

そこに何かがあると錯覚しているだけ。

そこには何もない。無だけが在る。

 

禅の間に…

禅堂にはあらゆる思考を持ち込まない。

目を閉じてはいけない。それは集中できない。

(思うに、目を開けて見る“現実”世界と目を閉じてつくる“想像”世界と、集中すべき芭蕉を違えてはいけない…のだと考える。あくまで現世で)

例えばゲームに集中していたら長い時間が過ぎてしまっていたように、「呼吸」のみに意識を集める。臍下丹田の呼吸。しかしその摩擦音を出してはいけない。そのほか、致し方ない反射的な生理現象であっても、なるべく控える。(それができる、という前提で禅堂に入れさせてもらっている、ということ?)咳、くしゃみ、鼻をすする等。

 

参考文献

  1. 禅の言葉:「調身・調息・調心」正しい姿で坐禅を組めばざわめく心も鎮まる(1/2ページ):nikkei BPnet 〈日経BPネット〉
  2. 縁起 - Wikipedia (ここでは仏教思想の縁起について解説されている)

  3. 高橋憲吾のページ -エンサイクロメディア空海- 空と縁起について

ある図書館情報学徒の進路の話 その0

ある日ふと思う。このままつくばで司書になって死ぬのかと。

Twitterで「プログラマ 就活」とか「コード 就活 優秀」とかで検索した。

 

 

 

 

 

 

 大学の学びとは何だろうと思うときもある。ベンチャーなり企業なり、実戦経験こそが最も重要なのではないかとかも。

自分は研究がやりたいのか?開発がやりたいのか?それとも、芸術とか?

 少なくとも司書になって司書のまま社会を嘆いて、或いは何も感じなくなって死ぬのは嫌だ。本能で拒否している。かといって、このまま大学の勉強をひたむきに続けていたからといって、何者になれるわけでもない。ちょっとプログラミング言語に触ったことのある司書の卵、あるいはコンサルの紛い物が出来上がるだけだろう。プログラミングって難しいし苦しいよね(笑)そんな軽い印象で2年も3年も費やしてたまるか。司書資格はもちろん取る。ここにきて司書にさえもなれませんでした~~とか笑えない。

 しかし、将来的に定職として選ぶ道ではない。"Librarian"としての矜持をもって卒業した後の人生を過ごしたいと考える。じゃあいったい何になりたいのか。

 人生の至上の目標として掲げうるもの、それは私にとって魂が震える物語を紡ぎだすこと、というのが現段階での結論である。そのストーリーにふれて自然と涙があふれる。感情が突き動かされる。そんな体験が老いた肉体にさえも訪れるとしたら、そんな体験がいくつになっても尽きないものであったら。そんな人生でありたいと私は考える。

 それでは、どうすればそこにたどり着けるだろうか。そのステージに至るためにいくつか“資格”が必要だと感じている。まず一つ目に創造性、次に余裕、そして最後につながりである。

 膨大な人生経験の蓄積、或いは不断の努力に基づいた知識によって創造性が培われていく。これに関しては、何をどうすれば良いという指標はない。常に創造性の源泉がどこにあるのか意識し探究し続けなければならない。

 身体的・精神的・金銭的・時間的・空間的に余裕を持つために何が必要であろう。それは、変わり続けることに他ならない。誰かがある一つのナニカになったとして、それがずっと変わらぬままその状態が続いていくことなどありえないし、変化がなくなった時点でそれは死と同義だといわれる。この状態は実際に私が経験したわけではない……経験したわけではないが、それを自己の経験により知ってしまうフェーズにまで至った時点ですべてがだめになり、時すでに遅しだろうと思う。だから私は、私たちは変わり続けなければならない。

 つながりというものはいったい何であろうか。見えないし触れない。聞こえないし感じない。誰かがきっとそこにあるだろうと検討を付けて(半ば盲目的に信頼しきって)行動するものである。日常生活でそれを捉えるためには、なにより動き続けねばならない。例えば、自分が自分だけであると思うこともある。それは一見当たり前のことであるし、それ以外に感じようがない。しかし、自分は自分以外のすべてで出来ていると思い込めばどうだろうか。思い返せば、自分を形作るすべては、もとはおしなべて自分以外のものだったはずである。それらは自分という主体が動き回ることで得たもの。動きを止め「自分は確かに自分である」とか、「本当の自分とはどこにあるのか」とか探し始めても見つかるはずはないのである。そういった行いのために大切なものを見落としてしまう。そこにあるはずの、自分と自分以外をつなぐ何かを見過ごしてしまうだろう。動き続けてそれがつながり、広がっていく。そう思い込む。自分は自分以外の誰かとのつながりによって形作られ、動き続けることによってそれらは維持されている。

 

 

閑話休題

 

 

 大学で学ぶことはもちろんすべて学びつくす。すべてを吸い上げる気持ちで臨む。きっとそれは無理だけれど、少しでもそこに近づこうとしてみる。

 そして来年からは社会に学んでみる。どこかにインターンする。お金を稼ぐ。自分で日程を決めてweb開発を進めるのは最後の手段に取っておこう。

 お金が貯まったら、それを元手にワーホリに行こう。まずは世界の流刑地オーストラリア。なんだってできる。何でもやろう。英語を身に付けることを第一目標に。

 そうなったとき、キャリアのどの段階でワーホリに臨めるだろうか。この問題は後々響いてくる。4年次の春からワーホリに行くのが、現状の自分でお金を稼ぐとして考えうる最短な気もする。軍資金としての1,000,000円を用意するのには、今からだとそのぐらいかかるだろう。そうすると、卒研がどうなってしまうのだろう。1年空けてから取り組むとなるとまた複雑な気がする。それでは、卒業して院に進学してすぐに休学→ワーホリだろうか?それもまた違う気もする。実現可能性が最も高いのはその時期だと考えてはいるのだが。

 これはインターンなりバイトなりを少しずつ頑張って得られるお金を蓄えて目指す場合の計画である。ド本命は、3年次の秋から休学しワーホリに臨むことであると私は考える。“web開発は最後の手段”というのは、逃げではないが堅実すぎる一方スケールしない。しかし幸いなことに、webサービスの概要を先人たちに相談しているうち、その形がおのずと見えてきた。自分自身もそれを必要としているし、必ずやほかのだれもがそれを必要とするだろう。或いは、時代がそれを必要としているかもしれない……、そんなアイデアが私にはある。なるべく早くそれを実現し収益につなげて、今後の自分の人生の糧としたい。自分にはきっとできるし、きっと自分にしかできないことだ。このすばらしさを知っているのは人類で自分一人だけ。

 いまはきっと頭のおかしいやつ・意識が高まりすぎてしまった人と思われるだろう。そのような評価をはねのけて、新たな時代に一石を投じたい。 オワオワリ。