気合でなんとか

@Ningensei848が頑張った記録

宝泉寺禅センターで修行してきた報告 - Klis Advent Calendar 2017

※この記事はKlis Advent Calendar 2017 - 4日目の記事です。Klis Advent Calendar 2017の記事一覧は以下からどうぞ。 adventar.org

 この記事の前日(3日目)の記事は、まきいし(@nowork_noota) さんの「趣味かオタクか何かしらのはなしをします→労働の話になりました」でした。以下からどうぞ~。(ほんとバイトして金を稼ぐってのは難しいよね…よくぞ頑張った、お疲れ様)

nowork-noota.hatenablog.com

 

というわけで本日は不肖わたしの順番です……めっちゃ気合い入れてかいたろ!とかおもってたら一日潰れていました(白目)

※すべての記事合わせたらおそらく1万字近く書いてる…なんでテスト期間も近い時期にこんなことを……

この記事の次の日(5日目)の記事は、chr(@lmn8cs) さんの「梶井基次郎を推す記事」らしいです。以下からどうぞ~。

lmn8cs.hatenablog.com

それでは悩める大学生/大学院生各位よろしくお願いいたします……。

目次

  1. 導入/経緯
  2. 概要
  3. 修行内容の詳細
  4. 各日の日記
  5. 諸注意:修行へ行く前に
  6. まとめ+修行したいと思ったひとへのメッセージ
  7. 参考文献

導入/経緯

 さて、世間ではインターネットの普及とともにSNSが大流行して久しいですね。 そんな現代社会において、何一つとしてSNSのアカウントを持っていないとか、自ら何の発信もしないという人はおそらくごく稀なマイノリティだと思われます。 例えばTwitterFacebook, LINE, instagram, slack, 懐かしいところではmixiや最新のものだとsarahahとか……。 利用目的は人それぞれ千差万別ありますが、“人との交流を求める”という点ではすべてのSNSツールに共通しています。 そりゃあまぁSocialにNetworkするためのServiceなのだから当然ですね。

 しかし、翻ってご自分の現在の利用状況を振り返ってみてください……。 そこにきちんと自分の目標設定、ないしSNSを利用する意義が明文化されていたでしょうか。 言い換えれば、「SNSを使う」のではなくて「SNSに仕える」ような事態になっていないだろうか、ということです。 人と話すのは楽しいです。人が楽しんでいる/哀しんでいる/憤っている/喜んでいる様子を見るのはある種の快楽です。 それらがとめどなくあふれて流れてくるSNSという情報の源泉は、ともすれば麻薬のような効果があるといえるでしょう。 使えば使うほどもっと使いたくなる…それを使うことでなんらかの不利益が自分の身に生じたとしても、 きっとそれ以上のリターンがあるはずだから、と思い込みさらにのめり込み、さらなる不利益が生じる……。 程度の差はあれど、上記の事柄に関しては誰しもが経験しうるSNSの落とし穴といえるでしょう。

 私はその罠に嵌りました。複数のSNSを活用し、自分の興味を広げ探索しているつもりになっていたのが、 実はただ時間だけを消費し結果として何も得られない虚無に陥っていたのです。 こうなると自分ではどうしようもない状態だと、当時の私は思いました。 どうにかして外部から何らかの圧力をかけて矯正しないといけない、と……。

 その外部圧力として私が選んだのが「寺に籠って禅道修行する」ということでした。
すべての電子機器その他インターネット上での自分という存在を縛りうるものをすべて捨て去って山に籠るのです。 現世での自分は既に死んだものと思って、京都府亀岡市にある宝泉寺禅センターの門を私は叩きました。

 次章からは、まず三泊四日で行われた修行全体の概要を述べ、そこから一日ごとの振り返りを述べていきます。 最後にまとめとして、この記事を読んだ方々へのメッセージと参考資料を載せてあります。

※あとから振り返ることができるようにしよう思い、修行中は毎日筆を執り自らの想いをつづっていました。 あまりにも長いので別の記事に書き、各章からリンクされるようにしてあります。 お時間に余裕のある方は読んでみてもいいかもしれません。

概要:禅道修行とは何をするのか

宝泉寺禅センターでは、主に以下のような修行を行いました。

  • 修行者たちを禅堂に集めて坐禅
  • 敷地内の掃除や作務(さむ)といった「動く禅」
  • 修行者たちが食堂に集まって懐石(薬石)をいただく
  • 御本尊のある本堂にて読経(朝のお勤め)
  • 和尚の法話をきく
  • 仏教聖典を修行者全員で順番に拝読する…… など

一日の時系列

05:20 起床。15分でトイレや身支度を済ませる。
05:35 朝の「歩く禅」即ち境内をぐるぐると回ったのち、そのまま境内で体操。
十分に体が温まったら禅堂で小坐禅
本堂に移動し、朝のお勤めとして読経。
終わり次第その場で担当場所が伝えられ、敷地内の掃除を行う。
15分ほど経って掃除を終えたら次は懐石。
30分ほどの休憩をはさんですぐ「動く禅」である作務(さむ)を行う。
(昼食までの3時間半は寺の敷地の内外のあらゆる雑事を作務として行うことになる)
12:00~ 昼食。後述するが、この時間が唯一至福の時とも言える。
修行者全員で食卓まわりを片づけ終えると、だいたい12:45くらいになっている。
(4hほど自由時間)
16:45~ 夕方の小坐禅を行なったあと、食堂に集まって薬石。
(小休止)
18:45~ 禅堂にて仏教聖典の拝読。
19:15~ 25分×3本(インターバル5分)で坐禅
22:00 完全消灯。

修行内容の詳細

 一言に修行といっても、イメージが湧かないと思いますが、禅の基本思想は「無」であること。 そしてそのために必要なのは「姿勢」と「呼吸」です。

坐禅の作法:姿勢

 坐禅、とは即ち「坐して立つ」ことにほかなりません。ただ足を組んで座るのとはわけが違います。 曹洞宗のこのページが参考になると思います。(以下、そこからの引用です)

まず、坐蒲(ざふ)がおしりの中心に位置するようにして、深すぎず浅すぎず坐り、足を組みます。結跏趺坐(けっかふざ)でも半跏趺坐(はんかふざ)でも、大切なことは、両膝とおしりの三点で上体を支えるということです。ただし、体調・体質には個人差がありますから、無理をせず坐り方を工夫すると良いでしょう。
背筋をまっすぐにのばし、頭のてっぺんで天井を突き上げるようにしてあごをひき、両肩の力をぬいて、腰にきまりをつけます。この時、耳と肩、鼻とおへそとが垂直になるようにして、前後左右に傾かないようにします。

と、ある通り、足を組んでその結果両膝と臀部の3点でtriangleが作られ、その重心に上体の重心を重ねられるように坐ればいいわけです。 さらに上体姿勢を整えるとなぜか不思議と身が引き締まる思いがします。 宝泉寺の和尚曰はく、坐禅におけるこの姿勢こそが「坐して立つ」であるといいます。 ※とはいうものの、膝が悪かったり骨格の関係でうまく足が組めない・正座するのが苦痛すぎて厳しいという人のためのサポートも充実しています。ご自分で調べてみてください。

坐禅の作法:呼吸

 禅の基本思想である「無」へと到達するためには、「呼吸を消すこと」が必要とされます。 息を止める、ということではなく、呼吸の際に漏れる摩擦音でさえも出さないように深くゆっくりと力強く呼吸せよ、ということです。 基本的には鼻からの呼吸が推奨されますが、それだけだとどうしても摩擦音が消せない場合に口呼吸と併用することも勧められています。 坐禅を行い深く瞑想し「無」になるためには雑音が非常に邪魔となる、というのは想像に難くないでしょう。 Adenoids気味な人にはつらい環境かもしれません。

朝のお勤め:経文読経

 本堂に集まり、正座の状態で約16頁に渡る経文を木魚や鐘の音に合わせて唱謡します。 肚から声を出す、という表現がありますが、熟練修行者たちの声量は全くどこから出しているのかと思うほどに大きく響く声であり、それに負けじと大きな声で音読することになります。 注意しなければならないのは、25分近い時間それを続けるということと、その間ずっと正座していなければならないということです。 私が初めて挑んだ時、読経が終わった後には足の血流が滞り、動かすことも立ち上がることもままならない状態になりました…。 幸いなことに、痛みや痺れ以外の部分、つまり読経そのものに集中できる(辛いという感情から目を逸らせる)ので、そういう点では すべての修行のうちで二番目に苦しい時間だったといえなくもないです。

動く禅 其の一:施設の環境美化

 なんとこの宝泉寺禅センターでは、シャワールームが4つ、男女兼用トイレが6つあり、それらを毎朝ピカピカに掃除する必要があります。 他にも、各部屋の掃除、外階段の掃除、シンク周りの掃除などきれいにすべき場所は種々様々であります。 これらを修行者全員が各場所に割り振られ、15分程度で掃除をすることになります。 ローテーションなのか固定なのか3泊程度ではわかりませんが、私の場合は、最も面倒といわれるシャワールームを3日連続で担当しました。 何か月かに一度掃除する、というレベルではなく清潔に保たれているため、やるべきことはネットにかかった毛髪やごみを取り除いたり、付近で拭いて水気をきることぐらいでした。

動く禅 其の二:作務

 懐石;朝の食事を終え、小休止を挟んだのち、午前中いっぱいは作務(さむ)と呼ばれる雑用に精を出します。 これもまたちょうど時期が悪く、私の場合は作務の中でも最も重労働な部類にあたる「畑の堆肥移動」をすることになりました。 (もちろんこれは主に年齢の若い男性で行われ、女性やご老体は敷地周りの掃除やゴミ捨て、買い出しなどに割り当てられていました) 私語を慎み、呼吸を整えたうえで、適度に同じ修行者たちとコミュニケーションを取りながら、 バケツリレーで堆肥を運んでいく様子はなかなか簡単そうで、しかし意外に腰に来るものでした(笑) 時間こそ長いものの、作業自体は簡単で集中しやすいものなので、禅の呼吸がうまくハマるとあっという間に時間が過ぎていきます(これはマジ)

動く禅 其の三:日常生活

 何で寺での修行生活(日常生活)が動く禅なの?という話ですが、いくつ理由があります。 まず一つ目に、すべて生活に必要なものは修行者全員の“共用”です。 例えば、休憩時間中にお茶を飲みたいと思ったときに、入れるために必要なコップは、使ったら水洗いして元の場所に戻す必要があります。 洗剤などは使わず、素手で水洗いし、布巾で水気を拭き取るだけです。 万が一、水筒やペットボトル等の持ち込みがあった場合は下山するまで預けなければなりません。 また、食事の際に使う持鉢(箸を含めた食器類)にしても、これまで修行してきた誰かが使ったものを渡されるわけです。 「汚れ」ではなく「穢れ」をどうしても強く意識してしまい、使うのに抵抗があったり苦痛に感じる人もいるかもしれません。

懐石と薬石:食事もまた修行である

 私にとって最も苦痛だったのは、この食事の時間です。 なぜそんなにも辛いのかというと、それは食事が始まってから終わるまでの約30分間ずっと正座を続けなければならないことと、その苦痛を紛らわせるような何かが一切存在しないからです。 目の前の食事はきっとおいしい…しかしそれを味わう以前に全神経が足に持っていかれてしまっているッッ……‼ 三泊四日の修行だと、朝3回・夕3回の計6回はこの苦しみを味わうことになります。

※実際には、正座ができない人は申告すればテーブルとイスで食事がとれます。膝を悪くしてしまったら元も子もありませんので。

 位置につき持鉢を開いて少し経ち、びりびりと足が痺れ始めたと思ったら、食事前の経文読経をせねばならなかったり、食事作法がままならず何度も注意されストレスになったり……。 食事中ももちろん私語は禁止ですし、器から口へ食べ物を運ぶ際も極力音をたてないようにしなければなりません。 食べ終えた後には、これがカルチャーショックにもなりうるのですが、まず一つの器にお湯を注ぎ、 そのヨゴレを、残しておいたたくあんで絡めとってきれいにするという行為があります。 そして最後にヨゴレが落ちて半ばスープとなった汁を一息に飲み干す……。 こうしてきれいになった器はすべて布巾で水気を拭き取り、乾燥させるでもなくそのまま持鉢を包んでいた布と一緒にくるんでしまいます。 そしてそれをまた次の懐石(薬石)でも同様にして使う……。この持鉢は下山するときに返却するまで一度も洗いません。 衛生面がどうしても気になってしまう方にはかなり厳しい修行となりうるでしょう。

各日の日記

 この章では、私が入山してから下山するまでの休憩時間に書いた日記(memo)をなるべくそのまま書き下したものです。 プレーンテキストそのまま張り付けてしまうとこの記事全体があまりにも長くなりすぎるので、別枠の記事として書きました。 以下のリンクからどうぞ

(※と思ってたけど思いのほか分量があってヤバい…長すぎるものは一部抜粋とか要約とかになってます)

諸注意:修行へ行く前に

しくじり先生じゃあないけれど、いざ修行へ行く前に留意すべきことを列記します。

  • 初めてなら三泊四日で挑もう、それ以下の長さだとあまり意味がないかも
    ※というのも、「まる一日通して修行しました」が一日だけなのか二日あったのかでだいぶ実感が違うと思う。 私の場合、三日目の夜の坐禅でやっと息の消し方に慣れてきて、少しだけ深いところまで瞑想ができた。 きっと二泊三日だけでは、正座が苦痛で苦痛で仕方がないという負の印象だけが残っていただろう。
  • 1人で孤独に修行したいのならここではないところで
    ※和気藹々、とは違うけれど、宝泉寺禅センターでの修行は時間によってメリハリがきちんとあった。 そして、修行者みんなで協調し、交流し坐禅にいそしんでいた。 一人で黙々と厳しくやりたい場合は違う場所を探さないといけないと思う。
  • 化粧はできないし、手先足先の保温もできない
    ※若い女性には厳しいなと思ったのは、化粧が禁止であること。歴史的経緯もあり、どうしても男性主義的な部分があるが、 それは修行だからであり、性別は超克したものだと思ってあきらめるほかない。男性ももちろんワックスなど禁止だしカツラもだめだ。 加えて、敷地内では素足が基本である。ポケットに手を突っ込むのもだめだし、手袋も使用できない。 こういった理由から、(特に若い女性には)寒い季節に修行に行くのはお勧めできない。
  • 耳鼻咽喉系/呼吸器系に不安のある人は再考を
    ※冒頭にも述べた通り、禅は「姿勢」と「呼吸」である。例えば、鼻が詰まりやすいとか鼻水が止まらないかもしれない人が 禅堂でほかの修行者と一緒に坐禅を行うとなると、他の迷惑にもなるかもしれないし、なにより自分自身が瞑想にも入れず苦しむだけである。 腹式呼吸で臍下丹田を鍛えれば大丈夫!ともいわれるが、苦しむために修行しているわけではない。
  • みんな悩んでいる/あなたはあくまでも他人
    ※わざわざ京都のはずれの寺まで来て修行をする覚悟のある人たちなのだから、みな真剣な思いで集まっている。 度合いは人によるが、いずれも悩み苦しんでいるかもしれない。 しかし、互いに理解者になろうとしてはいけない。ここに来たのはあくまで自分自身のため。修行のため。 曝け出すことも大切だが、一方で踏み込まれたくないこともあることに留意したい。

まとめ:自分のこれから&修行してみたいと思った人たちへ

 今回の修行で得たことの一つに「幸せへの階段は常に2ステップ」というものがあります。 すなわち、ワンステップ目に苦/楽があって、その次の段に幸せがある、という考え方です。 言い換えると、「楽しい、だから幸せ」というパターンと「苦しい、だけどそれこそが幸せ」というパターンがあるということです。 前者は皆さんが想像する通りですが、後者はいったいどういうことなのか。 それは、苦しんでいる時こそ何か成そうとしている状態であり、もっと言えばその中にこそ「無」の境地があるということです。 ここでは単純に「不楽=苦」ではないこと、自分が苦しむのと苦しめられてしまうのとは違うということに気を付けねばなりません。 (楽しくないイコール苦しんでいる、と考えるのは早計です)それは、「苦しい」のではなく「楽しくない何かがそこにある」というだけにすぎません。放っておきましょう。 自分で望んだ苦しみの中には、きっと幸せがあることでしょう。 しかし、そこに自分の意思が介在せず、「誰かの手によって苦しめられているだけ」である状態を苦しんでいるとは言いません。単に誰かから痛めつけられてるだけです。 また、「苦しみがいつか楽しさに替わり、やがて幸せが訪れる」とも考えてはいけません。3ステップで幸せが来ることはないのです。 結局その考え方は、苦しんでいる過去の自分に対して対価を求めているに過ぎないと思います。

 最後に、ここまで読んでくれたかどうかは置いておいて、自分も修行してみたいと思った人へ。
あなたは、ポジティブな理由で、禅へのほんの興味から修行してみようと思った人だと思います。勿論、そういう人もいましたが、 集まってくる修行者のほとんどは、ネガティブな理由で、そしてそれなりに覚悟をもってやってきます。 私があなたに対して、ここに来るな!などとは到底言えませんが、真剣に悩むほかの方々の邪魔をしてはなりません。 修行に挑むのであれば、それ相応の“覚悟”が必要だと私は思います。それがあって初めて修行に集中し、坐禅を組み瞑想し、 深いところで自己と向き合うことができるのです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
 私にとってこの四日間ほどの修行期間は人生の大きなターニングポイントとなりました。 共に修行した皆様、指導してくださった常住の方々、そして克厳和尚さま、本当にありがとうございました。

参考文献

  1. 禅修行の旅|渡辺美沙のゼロからどこまで出来るかな
    ※この記事を書くにあたって再度調べてたら読みやすく詳細な体験記が出て来ました。正座や読経、衛生面にあまり抵抗がない人ならば、こんな感じに満喫できると思います。
  2. 宝泉寺禅センター - 修行体験ができる禅寺 座禅、生活改善、人生相談
    ※公式ホームページ。日程の予約等の確認・申請もここから
  3. ブッダ(手塚治虫の漫画) - wikipedia
    ※寺の敷地内にある本棚に収蔵。漫画なので視覚的にわかりやすい名作
  4. 坐禅の作法 | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ
    坐禅の作法から足の組み方や姿勢・呼吸など網羅しているページ。イラスト付きでわかりやすい。
  5. ブッダの休日(Kira・pata・shining Mix) by nanasi765 | Free Listening on SoundCloud
    今回の記事を書くにあたっての作業BGMとして流してました。