ある図書館情報学徒の進路の話 その0
ある日ふと思う。このままつくばで司書になって死ぬのかと。
Twitterで「プログラマ 就活」とか「コード 就活 優秀」とかで検索した。
みんな就活就活いうてるけど、プログラミングがめっちゃ書ける人で苦労してる人知らないし、むしろ引く手あまたな人ばっかって感じなので、プログラミングめっちゃ書けるようになる方が就活頑張るよりいいよ(´・_・`)
— Hideyuki Tanaka (@tanakh) 2017年11月5日
アメリカのウルトラ・ハイスペックな学生はこんな感じ:学部終わって、起業してソフト書いて、別の起業に雇われてプログラマとして2年働いてから、修士課程に入って研究室でさらに経験を磨く。
— Hiro Ono / 小野雅裕 (@masahiro_ono) 2017年11月4日
日本の学生も優秀じゃないわけじゃないけど、機会の多様性に乏しいのがハンデだよなぁ。
コードが書ける大学生はTwitterで「お仕事募集します」というと就活が完了するらしい
— yukito ohira (@yohira_dev) 2017年11月14日
そもそも優秀な新卒っていうのは(特にプログラマ)就活以前にいろいろな企業から声が掛かってるので、マイナビとかリクナビに登録したところで優秀なやつなんて応募に来ない
— Kazuya Gokita (@kazoo04) 2012年4月22日
就活における優秀人材とは「高感度人材」だろう。アンテナが高く、消費に長け、どんな経験を消費すればどんなPRになるかをきっちり知っている人間だ。消費社会における意味づけコードをいち早く理解し、自己のアイデンティティも消費によって改変していく。大卒を採る意味はスクリーニング以外ない。
— Yuki (@pociy) 2012年1月30日
大学の学びとは何だろうと思うときもある。ベンチャーなり企業なり、実戦経験こそが最も重要なのではないかとかも。
自分は研究がやりたいのか?開発がやりたいのか?それとも、芸術とか?
少なくとも司書になって司書のまま社会を嘆いて、或いは何も感じなくなって死ぬのは嫌だ。本能で拒否している。かといって、このまま大学の勉強をひたむきに続けていたからといって、何者になれるわけでもない。ちょっとプログラミング言語に触ったことのある司書の卵、あるいはコンサルの紛い物が出来上がるだけだろう。プログラミングって難しいし苦しいよね(笑)そんな軽い印象で2年も3年も費やしてたまるか。司書資格はもちろん取る。ここにきて司書にさえもなれませんでした~~とか笑えない。
しかし、将来的に定職として選ぶ道ではない。"Librarian"としての矜持をもって卒業した後の人生を過ごしたいと考える。じゃあいったい何になりたいのか。
人生の至上の目標として掲げうるもの、それは私にとって魂が震える物語を紡ぎだすこと、というのが現段階での結論である。そのストーリーにふれて自然と涙があふれる。感情が突き動かされる。そんな体験が老いた肉体にさえも訪れるとしたら、そんな体験がいくつになっても尽きないものであったら。そんな人生でありたいと私は考える。
それでは、どうすればそこにたどり着けるだろうか。そのステージに至るためにいくつか“資格”が必要だと感じている。まず一つ目に創造性、次に余裕、そして最後につながりである。
膨大な人生経験の蓄積、或いは不断の努力に基づいた知識によって創造性が培われていく。これに関しては、何をどうすれば良いという指標はない。常に創造性の源泉がどこにあるのか意識し探究し続けなければならない。
身体的・精神的・金銭的・時間的・空間的に余裕を持つために何が必要であろう。それは、変わり続けることに他ならない。誰かがある一つのナニカになったとして、それがずっと変わらぬままその状態が続いていくことなどありえないし、変化がなくなった時点でそれは死と同義だといわれる。この状態は実際に私が経験したわけではない……経験したわけではないが、それを自己の経験により知ってしまうフェーズにまで至った時点ですべてがだめになり、時すでに遅しだろうと思う。だから私は、私たちは変わり続けなければならない。
つながりというものはいったい何であろうか。見えないし触れない。聞こえないし感じない。誰かがきっとそこにあるだろうと検討を付けて(半ば盲目的に信頼しきって)行動するものである。日常生活でそれを捉えるためには、なにより動き続けねばならない。例えば、自分が自分だけであると思うこともある。それは一見当たり前のことであるし、それ以外に感じようがない。しかし、自分は自分以外のすべてで出来ていると思い込めばどうだろうか。思い返せば、自分を形作るすべては、もとはおしなべて自分以外のものだったはずである。それらは自分という主体が動き回ることで得たもの。動きを止め「自分は確かに自分である」とか、「本当の自分とはどこにあるのか」とか探し始めても見つかるはずはないのである。そういった行いのために大切なものを見落としてしまう。そこにあるはずの、自分と自分以外をつなぐ何かを見過ごしてしまうだろう。動き続けてそれがつながり、広がっていく。そう思い込む。自分は自分以外の誰かとのつながりによって形作られ、動き続けることによってそれらは維持されている。
閑話休題。
大学で学ぶことはもちろんすべて学びつくす。すべてを吸い上げる気持ちで臨む。きっとそれは無理だけれど、少しでもそこに近づこうとしてみる。
そして来年からは社会に学んでみる。どこかにインターンする。お金を稼ぐ。自分で日程を決めてweb開発を進めるのは最後の手段に取っておこう。
お金が貯まったら、それを元手にワーホリに行こう。まずは世界の流刑地オーストラリア。なんだってできる。何でもやろう。英語を身に付けることを第一目標に。
そうなったとき、キャリアのどの段階でワーホリに臨めるだろうか。この問題は後々響いてくる。4年次の春からワーホリに行くのが、現状の自分でお金を稼ぐとして考えうる最短な気もする。軍資金としての1,000,000円を用意するのには、今からだとそのぐらいかかるだろう。そうすると、卒研がどうなってしまうのだろう。1年空けてから取り組むとなるとまた複雑な気がする。それでは、卒業して院に進学してすぐに休学→ワーホリだろうか?それもまた違う気もする。実現可能性が最も高いのはその時期だと考えてはいるのだが。
これはインターンなりバイトなりを少しずつ頑張って得られるお金を蓄えて目指す場合の計画である。ド本命は、3年次の秋から休学しワーホリに臨むことであると私は考える。“web開発は最後の手段”というのは、逃げではないが堅実すぎる一方スケールしない。しかし幸いなことに、webサービスの概要を先人たちに相談しているうち、その形がおのずと見えてきた。自分自身もそれを必要としているし、必ずやほかのだれもがそれを必要とするだろう。或いは、時代がそれを必要としているかもしれない……、そんなアイデアが私にはある。なるべく早くそれを実現し収益につなげて、今後の自分の人生の糧としたい。自分にはきっとできるし、きっと自分にしかできないことだ。このすばらしさを知っているのは人類で自分一人だけ。
いまはきっと頭のおかしいやつ・意識が高まりすぎてしまった人と思われるだろう。そのような評価をはねのけて、新たな時代に一石を投じたい。 オワオワリ。